もう終わりにしよう。が終わらない。

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凄いものを読んだ。
これはすごい、すごいよ。
なんというか表層部と深層部があると思うんだけど、まず表層部ね。

 

まず序盤からジェイクの実家に着くまでの二人の会話がすごい好き。こういうの大好き。らちのあかない話をお互いに考えながらいつまでも話すの楽しいよね。意見の合う合わないじゃないんだよね、こういう会話を楽しめるかどうかという共通項、大事。意見なんか合わなくたって「はぁ?いや違うよそうじゃなくって!」「え、だってさっき言ってたのと同じ流れでしょ」「違うよあれはさ…」みたいなのでこれはこれで延々行ける。そんで相手が話してる途中で車窓から「あ!コンビニ!ちょっとアメリカンドッグ買いたいから寄ろう」「ちょっと絶対話聞いてなかったでしょ」「聞いてた聞いてたあ!ハーゲンダッツ新作出てるじゃん」とか言ってアメリカンドッグ食べながら車に戻って「そんで結局その時の授業は先生来なくて自習になってさ」「何の話だっけそれ…」とかまたエンジンかけるみたいなのやりたい。誰か連れてって。あ、アメリカンドッグじゃなくてあんまんでもいいので。

 

「わたし」も「出たジェイクならではの名言」とか「ここでこういうこと言うジェイク好き」とか脳内キャッキャしてて私もツボが同じだったので一緒にキャッキャして楽しめた。
「どんなものにおいてもギリギリのバランスが必要。すべてのものはとても繊細で微妙。すべてのものはあり得ないほど壊れやすい。流れが身体をめぐる日が時々ある。僕の中にはエネルギーがある。君にもだ。注目に値することだよ。流れの感覚。僕と君。流動の独特の速度を感じる。」ひゃー!これはもうお目目ハート案件。BGMには小沢健二「流動体について」をかけましょう。

 

まあでも小説内こんな痛快ウキウキ通りみたいな空気にはなってないわけで、「わたし」の電話の話と窓の男の話は細部の描写がリアルで生々しくて不気味すぎた。夜中に目覚めて窓の男を観るシーンの「いきなりパッと目が覚めた」描写とか「部屋に人いる気配」の描写とか。「怖い」は割と分かり易く真っ直ぐな感情だから正攻法で自由自在に感じさせることができると思うけど「不気味」「気味が悪い」って些細なズレや違和感の積み重ねで徐々に生まれてくる感情だと思うのでそれをこんなに的確に読者に降ろすことのできるこの才能すごい。

更にジェイクの実家の不気味さよ。豚の話、子羊の死体、なかなか登場しない両親、母親のはがれた足の爪、父親の増えていくバンドエイド、突如始まる物まね大会とかなんなんだよそれ…怖ぇ…「わたし」が爪を食いまくるのも怖かったなあ。巨大な爪の破片が口から出てくるってもうそんな食ったら爪なくなっちゃうよ…ジェイクも急に冷たくなって相手してくれないし居間から見える傷だらけのドアはどこに通じてるのとか…怖いフラグが立ちすぎてもう読んでてメンタル追い詰められ過ぎて爪噛みそうになったわ…

 

深層部は…もう…胸が痛くて辛くて悲しくて「悲痛」そうだこれこそ悲痛だ。悲しくて痛い。
ジェイクは人と居たい。「幸せや充足感は他者の存在に依存する」「他人と関わらない人生に生きる意味はあるか?」そこから抜け出せない。一人きりの自分にずっと絶望している。職場の人たちのことは好きなのにうまく関われない。「居なくていいならこんなところには居なかった」
そしてそんな自分についてジェイクの知性がどんどん思考を働かせてしまう、答えを求めてしまう、手に入らないものを見極めてしまう、それに絶望してしまう、選択肢を考えてしまう、選んでしまう。その知性は、幸せ?

 

「わたし」が言ってた。「疑問が私達の知性を押し広げる。疑問があるおかげで私たちは自分は一人じゃない、人とつながっているという思いを強くすることができる。知ることだけが大事なんじゃない。知らないこともいいことだ。知らないことは人間的でしょう。」そして問いかけていた。「知性とは絶対的にいいものなのだろうか?知性が充足感より孤独を招くとしたら?生産性より苦痛や孤立や後悔のもとになるとしたら?理詰めの考えや知性は寛大さや共感とは結び付かない?」

 

「わたし」がここを攻め切れていたら変わっていただろうか?ジェイクを変えられただろうか?
ジェイクには抜け出せない自分の絶望的な行く末にではなく、「本当に抜け出せないことなどあるだろうか?」と問うてほしかった。「自分の幸せは本当に他者に依存するだろうか?」「一人で生きる人生に本当に意味はないだろうか?」「いや自分は本当に独りだろうか?」そこに知性の猛チャージで思考を働かせて限界を押し広げてほしかった。光を見つけてほしかった。

 

そういう意味ではジェイクが弟の話を始めたところが「わたし」の攻めどころだった気がする。ジェイクがその「知性」を「弟」というアイコンで外出しにして自分から距離を取らせようとした時、そこで一気に反知性(?)、生きてるだけで丸儲け方面へ持っていけたら。「弟はそうだったよね!でもジェイクは違うよね!ほらわたしと一緒にこっちに行こうよ!」って。でも弟は「ジェイクにずっと付いて歩くようになり」「ジェイクの服まで着るようになり」そしてジェイクとまた同化してしまった。ジェイクも「終わったことだ」と弟の話は封じてしまう。

 

「なにをぐずぐずしている?」うるせーと言いたい。ぐずぐずしている(と思われている)その瞬間も大事な私の生だ。そんなに急いで何を目指しているのか、そんな所へは行きたくないとはっきり言いたい。自分の中で自分を苦しめる考え方は自分で変えていけばいい。なぜ外部から植え付けられた考え方で自分を苦しめる必要がある?自分が生まれて、死ぬまで、自分が居心地よく生きるのが一番大事。

 

「なぜわたしたちがこの場所に来たのか、なぜわたしがこんなふうに閉じ込められることになったのか、なぜひとりきりになってしまったのか、わたしが知ることはないだろう。こんなふうになるはずじゃなかった。なぜ、わたしが?」ジェイクの孤独の辛さ、なぜ自分が?という疑問が、「お前らのせいだ!」と他者への攻撃に結びつかないのは奇跡的だと思える。ジェイクにはその責任を他者にもたせるという発想が全くない。そしてそこにまた究極的な他者との断絶を感じる。

 

と他者からジェイクへの目線で意見を言っているが、私もジェイクだ。人間全員程度の差はあれみんなジェイクだ。日々与えられる膨大な選択肢で分裂していってる60億のジェイクだ(今の世界人口をよく知らない)。
「あなたは善い人間?本当に?正しい行いをすること、選択をすることには美がある。違うか?」

 

3回読んでずっと考えたし今も考えているしこれからも考え続ける。疑問が疑問を呼び当たり前と思っていたことを見失い観たこともない景色が目の前に広がる。そこへ連れて行ってくれる本は本当に素晴らしい。