だいぶ前に録画したものをやっと見た。大江さん関連は時間的精神的に余裕がある時に、じっくり自分の頭で考えながら触れないと、きちんと受け止められずに上っ面を滑って行ってしまうので、お盆休みにやっと観ることができた😅
1980年の映像。45歳の大江さんが若々しい。私はこの画家は名前しか知らないし、番組で紹介された作品達を見ても魅力がわからず、気味の悪い絵だと思ってしまうけど、大江さんの話を聞いて、なるほど彼の描いてるものにはそういう意味があるのか、創造とはそういうものなのか、と目が覚めるようだった。ベイコンの絵、大江さんの小説、そして人間が生きるということ、とどんどん大江さんの導きで、大江さんの解説で、視界が広がっていくのが素晴らしい。大江さんの話を聞いた後に絵を見ると、ほとんど別のもののように見える。
しかし自分が絵を見た時にそんな思考には到底なれないので、芸術の鑑賞とはそこまで受け取れるものなのかというのが本当に驚きというか畏敬の念に打たれた。
ベーコン本人の言葉もたくさん出てきたけど、その断片的な情報達と、大江さんご自身が絵から受け取ったものを合わせて、分かりやすく丁寧に解説してくれていて、そういうものを絵から読み取る、感じ取る大江さんの繊細で理知的な感受性も凄いけど、それを整理して相手に伝わるように言語化する能力が本当に本当に凄いと思った。私だったら、まぁまず感じ取れもしないんだけど、もし絵から何かを受け取っても「なんかわからないけど衝撃を受けた!」としか言えないだろうなぁ🤔
=以下 大江さん談=
ベイコンは苦しいものと美しいものを一緒に包み込んで描いている。
対象をそのまま描くという意味では正確ではないが、自分が描きたいことを正確に描いている、という意味で正確。
万延元年のフットボール。
英訳のタイトルがSilent cry。静かに叫ぶというのは現実にはできないことだけど、受け取る側にには、叫び声を聞くよりも、静かな叫び声、という言葉を聞いた時の方が幾重にも重なって届くものがあるように思う。そのように、元の事象よりも、ねじれた表現、実際とは違う姿だけど観る側に考えさせるものを作り出すということが、創造なのではないか。
小説も具体的な事象から書き出すけれども、それを超えて複雑な、今までそれ自体によっては想起してこなかったことを包含していくものに作り変えていくことであるので、ベイコンが、人間の体を描きながらも元の形から離れて、捻れたような判別できないようなものに作り変えて描いているのと似ている。
ベイコンの絵を見ていると彼が元の具象を、彼が表現したいものに沿うように、正確に表現できるように、作り替えていこうとする運動を感じる。
それが芸術家にとってはとても大事なものだと思う。自分も小説を書くときに、最初に持っていたイメージがねじれていく、そこには内部の必然性がある。
モネが日没を描くように、口を描けたら。(ベイコンは口に非常に興味を持っていたらしい)
ベイコンがベラスケスを何か異常なものと深いものを感じる、と言っていた。
普段友人を見ているときに、人はそこに一人の人間として、異常なもの・深いものがある存在だというふうには見てはいない。友人として、その顔や姿を正面から見ないような感じで接しているが、友人の病気など、何かの出来事が起きた拍子に、そこに普段見ない異常なもの、深いものを見て、友人を一個の人間として発見する瞬間がある。
小説や絵などの芸術とは、そういう瞬間を作り出すことである。現実において不意に訪れるそう言った瞬間を、作品の中では受け手に常にそれがそこで感じられるように、そういう手続きを作り出す。
ベイコンが現物よりも写真を見て作品を作ったのは、写真などで切り取られた物からの方が、そういった瞬間を受け取れたからではないか。
普段連続性の中で捉えている自分というものを、写真では一つの瞬間を捉えられて、それを見て受け手はムッとする(違和感を感じるって感じかな)
ベイコンはそのように受け手をムッとさせるようなものを描きたかったのだと思う。自分の小説でも、普段生活している安定した側面から一歩深いところに入り込んで、現実を捉え直す、人間を考え直す、ものを書いている。
大江さんも写真を見ながら小説を書くことはある。(写真が邪魔になることはないか?とアナウンサーの質問)自分が持っていたイメージを叩き壊すようなものがあった方がいい。ベイコンも描いているときにアクシデントが大事だと言っている。アクシデントのように予期していたものと違うもの、深いものが出てくることがある。積極的に偶然性を勝ち得る。偶然性により作品を発展はさせるけれども、深いところでは連続性を持ちたい。と言っている。
自分も似ている。自分が知ってるもの、予期しているものをそのまま書いてもつまらない。僕が知らないもの、僕自身が知っているものを超えたものを書きたい。そのためには、自分があるイメージを作っていく、言葉を書き変えていく、その段階でアクシデントのように自分を超えたものができてくる。そういう仕組みを作るってことが、小説を書くということ。ベイコンも自分も、それを待っている。何がやってくるかはわからないけれど、何かがやってくる。
サルトル「自分が持っているものを、持っていないものに向かって乗り越えていく。自分を未来に向かって投げ出していく、という形で小説を書いていく。もともと人間が生きるとはそういうことだ。」というのがサルトルの考え方。
人間は非常に脆い、壊れやすいものだ。
人類全体が壊れてもおかしくない方向に進んでいる20世紀に、こういうふうにそれを、人間の壊れやすさ、グロテスクさ、醜さを描くことができる者が居るということは、逆に人間が持ち直していける明るい要素でもあると思う。
ベイコンにとってもそれを描くということは辛い作業だと思うが、でも描くことが、彼の救いにもなっている。
見る方も、こういった気味の悪いもの、わかりにくいものを見ることによって、その暗い中に、希望を見出すということができる。それが芸術の役割でもある。






