「春にして君を離れ」 アガサ・クリスティー

アガサ・クリスティーってミステリの女王ってイメージでしたが、こういう小説も書いていたんですね。背表紙ではロマンチック・サスペンスと紹介されていますが、なんていうんだろうこういうの。何も事件は起きないし、もちろん誰も死なないし、探偵も出てこない。でも怖い。怖くて哀しくて切ない。

主人公は優しくて有能な弁護士の夫と、賢く可愛い三人の子供を持つ、容姿端麗な女性ジョーン。少し頼りない夫には時に理性的に意見したり、子供達が道を踏み外しそうな時は正しく説き導いたり、彼女の八面六臂の働きによってこの家族はここまで来られたのだという自信と誇りに溢れた女性。しかし旅先でバッタリ会った旧友との何気ない会話から、彼女が今まで築いてきた(と信じていた)自分を取り巻く世界像にひびが入り出す…子供たちは、夫は、本当に私を愛しているのか?!私が今まで見てきた世界は自分以外の人にも同じように見えていたのか?!

さすがのアガサ・クリスティ-ですので、細かい心理描写がスゴイです。というか実際事件や大きな出来事は何も起こりませんので、ほとんどが主人公の内面の描写です。旅先で悪天候のため足止めをくらった主人公が、ひたすら内省し、今までの人生を思い出していくと、今まで自分に見えていた事実がひらりひらりと意地悪く裏返っていき、やがて思いもしなかった全く新しいストーリーが見えてくる…
所々ちりばめられたヒントにより、読者も主人公と一緒にだんだん違うストーリーに気づき出します。そしてその変化により主人公への印象、夫への印象、子供たちへの印象もくるりくるりと変わります。いやほんと、すごいです。すごいなあアガサ・クリスティー。何も起きなくても、いや起きないからこそ、彼女の比類なき才能をビシビシ感じて感動しました。

この小説は当初メアリ・ウェストマコットというペンネームで出されたらしいのですが、これはアガサ・クリスティーがこういった小説(ミステリ以外)を書く際に使用したものだそうです。
アガサ・クリスティーの本だからミステリだろう、と期待して買うファンが居たら失望させてしまうからという理由だそうですが、私的にはミステリ以上に読み応えのある小説でした。彼女のこのジャンルの小説をもっと探して読んでみたいと思いました。