中動態の世界

難しかったっ!何度も眠くなるし(ていうか寝たし)起きて栞のところから読んでも「?」となりあ、栞の位置が間違ってたのかなとちょっと戻ってもずっと「?」でどこまでも戻りそうになるしカタカナいっぱいで知らん人の名前いっぱいで誰・・・てなってメソテースって誰だっけと思ったら中動態のことだし英語はまだしもギリシア語やドイツ語やもう縦横無尽でとにかくすごかった(語彙)
2回読んでも五里霧中だったので(つまり十里霧中ですね)ネットで著者のこの本についての対談記事をがっつり読んで、ようやくぼんやりと分かったようなわからないような気がしないでもないというところにたどり着いた感じ。
(https://www.gentosha.jp/article/8263/)


この間読んだ「居るのはつらいよ」の中にこの本が出てきたので今回読んだんだけど、文法のこととか古代ギリシアからの歴史のこととかこうあまりにも概念的(としか捉えられない私の理解力の限界…)な話につらくなった時に「居るのはつらいよ」のケアの現場を思い出したら能動でも受動でもない中動という状態が具体的に理解できてそうそうそんな難しく考えないでも大丈夫なんだった(涙目)と肩の力が抜けて「読むのはつらいよ」状態から抜け出せたりして助かった。

細かい話は理解しきれていないところもたくさんあるんだけど、一番面白いなと思ったのは、昔は能動態と中動態の二項だったものがその後中動態から受動態が派生して、いつのまにか中動態は廃れて消えてしまい能動態と受動態の二項になってしまったと。そして何が面白いと思ったかというとその変化に伴って人々の考え方も変わってしまったというところ。能動と受動の二項ということはつまり「自分の意志でしたのか」「人にされたのか」の責任がどっちにあるのかという切り口だけが残り「発生源はよくわからないけどその場に起きた」という中動という概念が言葉と共に廃れてしまった。それによる古代社会から現代社会への変遷とかその意味とかについてはまたいろいろあると思うんだけど(雑)、私はこの「言葉の変遷と共に人々の概念もその集合体である社会も変わってしまった」というのが面白かった。もちろん「人々の概念が変わったから言葉もそれに伴って変わった」のかもしれないけどこれはひよことたまごどっちが先かみたいな感じで要は分かち難く繋がっているということ。だから単純に「能動態vs受動態ではなく能動態vs中動態を考えてみよう」という言葉上の問題ではなく、著者がこの本についての対談で「僕たちは尋問する言語に支配されている」と言っているように、まず今自分が支配されているこの言語世界の中から一旦抜け出して、今のようではなかった言語世界とそれに支配されていた社会を考える、というところまで掘り下げていく(中動態的に言うと掘り下がっていく、ですかね笑)感じが、文法を論じながらそこに留まらない、自分の立ち位置、今ある世界から問い直す「哲学!」という感じで面白かった。著者渾身の主旨からは外れてる気がするけど、私が何が面白かったか、伝わるかしら笑

ジョージ・オーウェル1984でも言葉狩りをして民衆の思考を狭めていく、考えられないようにしていくというのがあったように、言葉が無いと考えられないし、言葉によってその人の思考が左右され、ひいてはその社会の流れみたいなものまで変わっていってしまうというのは忘れがちだけど本当に大切なポイントだと思う。著者の対談でも今はLINEのスタンプやインスタなどでどんどん言葉を使わなくなっているけど言葉というのはコミュニケーションのためだけにあるのではないと言っていたんだけどその通りで、今更スタンプ禁止で言葉で書けとかそういうことではなく、コミュニケーションの変化としてその流れはいいとして(もちろんそれによってのメリットも何かしらあるんだろうし)、ただ、そういう時代だからこそ私たちは言葉を忘れないように、自分の思考が衰えないように、言葉に触れる機会を持つ努力を一層しなくてはいけないんだなと思った。筋肉が鍛えないとすぐ衰えるように、言葉も使わないとすぐ忘れるし維持のためだけにでも、そして思考を広げていくためにはさらに、言葉の筋肉を鍛え続けなければいけないなと思った。だからやっぱり読書だな。

 

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